正味なところ、デカケツがこれほどまでに人類へ広く大きな影響を与えた理由がいまだにピンときていません。
もちろん私はデカケツが嫌いなわけが全くありませんし、加えてこの嗜好がアンナチュラルというわけでもなく極めてナチュラルであり、多くの人々が愛ある形で丁寧に扱ってきた文化だとは理解しているのですが、デカケツを発見してまもないころ、とんでもない勢いで評価だけが広がっていく様を前にして、
「え、これ私の性癖の代表になるんですか?」
とあっけにとられていたのをよく覚えています。
みんなでキャンプファイヤーでもしよう、くらいの気持ちで尻を眺めたら、みるみるうちに延焼していき、気が付けば煩悩の山火事へと発展してしまった。
右手には理性、左手には常識。
当事者である私が見た景色とは、だいたいそんな感じでした。
子供のころ、偉大な紳士たちが自らの性癖について多くを語らない姿をよく見てきました。
なぜ好きなのかわからない。
説明もできない。
だが好きだ。
そんな態度を見るたびに私は内心で
「語れよ!」
と思っていましたが、いざ自分の身に降りかかってみるとようやくその態度に納得がいきました。
つまり、こういうたぐいのものは理由や理屈などを猛烈なスピードで置き去りにしてしまうのです。
気付けば議論は終わり、残るのは「好き」という事実だけ。
そういうわけで私は、デカケツをきっかけに先人たちの座る食卓の端席へと招かれたのだと思います。
期せずして煩悩節のような文になってしまいましたが、私は当時から一貫してデカケツに多大な感謝を抱いております。
人生に戸惑うたび、疲れ果てるたび、
そこにはだいたいデカケツがありました。
見も知らぬ景色を見せ、眩暈するほどおもしろい人生へと導いてくれました。
今後わたしがショボくれたジジイになり、四回りくらい歳の離れた若造の前でデカケツを語り、
「そんな変な趣味やめてや」
とか
「誰も語っとらんで」
とか雑に扱われる将来を幻視する夜もありますが、
まあそれはそれで。